午前三時半。あたりはまだ真っ暗で、波の音だけが聞こえています。
白い禊着一枚をまとって、私は冷たい海へゆっくりと降りていく。一年でいちばん昼が長い日、夏至の朝。これから昇る太陽を、海の中に立って迎える。
二見興玉神社の、夏至の禊。ここに、私はもう十年以上、毎年通っているんです。
物好きだと言われればその通り、それでも続けているのは、終わったあとの、あの何とも言えないスッキリした感覚があるから。そしてもうひとつ――少し迷信めいて聞こえるだろうが――ちょっと困ったことがあったとき、不思議と助け舟が現れる気がするから。それはきっと、この禊のおかげなんじゃないか。十年たった今では、本気でそう思っている。

なぜ「二見」なのか
行に入る前に、ひとつだけ。なぜよりによってこの浜なのか、という話をしておきたい。
お伊勢参りは二見から、という。古来この浜は禊浜と呼ばれていて、伊勢へ向かう人はまずここで潮を浴び、身を清めてから神宮へお参りした。先に二見で落として、清らかになってから、いちばん大切な場所へ。その順番が、千年以上も守られてきたということ。
夫婦岩は、ただ寄り添っているわけではない。沖合に沈む興玉神石を拝むための鳥居であり、二つの岩に張られた注連縄は、神の世界とこちらを分ける結界だ。倭姫命が天照大神を奉じて船を停め、あまりの美しさに二度振り返ったから「二見」。地名ひとつにも物語が宿っている場所。
そもそも禊そのものが、黄泉から帰ったイザナギが海で身を洗い、その左目から天照大神が生まれた神話に始まる。夏至の朝、海に立って太陽を迎えるという行いは、その神話を体ひとつでなぞっていることになり、そして運がよければ、夫婦岩のちょうどあいだから、一年でいちばん力の強い夏至の太陽が昇る。

私の夏至 ―― 二時起きの、ある朝
ここからは、実際にどんな一日を過ごしているか書いていきます。
禊は深夜から始まるので、前日のうちに海岸沿いの宿に入ります。定宿の浜千代館では、禊から戻った私たちのために、温かいお風呂を用意して待っていてくれる。びしょ濡れで冷えきった体に、これがどれほど沁みるか。この日に合わせて同じ心配りをしてくれる宿が、この海沿いには多い。町ぐるみで、この朝を大切にしているのが伝わってくる。
目覚ましは午前二時。受付が二時半、祭典が三時半に始まるのに合わせて、白い禊着に着替える。宿を出ると当然まっくらで、街灯も少ない。スマホのライトを頼りに、波の音のする方へ歩く。何年通っても、この暗闇を歩く高揚感だけは変わらない。
神社に着いたら手水を使い、荷物を置き場へ。終わればずぶ濡れになるので、タオルは必須。時間があれば、暗い境内でスマホの記念撮影。こういうところは、何年たっても変わらない。

境内の茅の輪を、まず胸に想い、願いを抱いてくぐる。唱え詞を唱えながら、左、右、左と八の字に三度。「水無月の夏越の祓する人は……」と口の中でなぞって、大祓のこの儀式がまずは一つ目の行事といった感じ。

本殿で祭事が始まる、宮司様が祝詞を奏上、代表者の玉串奉奠(たまぐしほうてん)。全員で拝礼をしたり、30分ほど。それが済むと、広場に出て鳥船だ。舟を漕ぐように両手を前へ突き出しては胸へ引き、また突き出す。これを左右に繰り返しながら、「エーイッ」「ホー」と大きな声を出す。
正直に言うと、最初は戸惑いました。こんな掛け声を出して体を動かすことなど、普段はまずない。けれど、まわりを見よう見まねで声を合わせているうちに、だんだん体の芯が熱くなってくる。これが、海に入るスイッチになる。不思議な運動。
体が温まったら、いよいよ入水。塩で身を清め、浅瀬に降りていく。今年2026年は干潮で、水は浅めだった。満潮の年は、胸のあたりまで来ることもあるのだけれど。
海に入ると、祝詞に合わせて腕を濡らし、胸に水をかけ、頭にかけ、最後は全身を潜らせる。締めくくりは肩までつかったまま、祝詞を読み上げ、本当は暗記しているのが理想なのだけれど、巫女様がマイクで先導してくれるので、なんとなく思い出しながら声を出し、あとはついていく。冷たい水の中で、みんなの声がひとつになっていく。
最後に国歌を斉唱して、太陽の恵みに感謝し、その恵みを全身で受けて、海での行は終わる。
今年は、日の出を拝めなかった。運がよければ夫婦岩のあいだから太陽が昇り、その光をじかに浴びられる。けれど夏至は梅雨の真っ只中でもあって、きれいに拝めたのは十年でたった二回ほどだ。

それでも、太陽は雲の向こうにちゃんといる。姿は見えなくても、温かさと明るさは、はっきり感じられる。見えないからといって、そこに無いわけじゃない。冷たい海の中で空を見上げながら、毎回そう思う。
海から上がると、もう一度鳥船。宮司様のご挨拶をいただき、一本締めで締めくくって、すべてが終わる。全身びっしょりで冷えきっているのに、不思議と心地よい。スッキリと、魂が洗われたような感覚。「みなさんの顔がピカピカして見えますよ」と宮司様もおっしゃっていたが、本当に、その場の全員の顔が明るく見える。
宿に戻れば、待っていてくれたお風呂がある。穢れを払ったあとに、現実的にもさっぱりする。そしてこのピカピカのまま、伊勢神宮へ向かう。一年のうちで、この日の神宮参りがいちばん神様に受け入れてもらえている気がするのは、たぶん気のせいではない。お伊勢参りは二見から――その順番を、体で実感する瞬間だ。

今を生きる私に、これが何をくれるか
正直に言えば、最初は「変わった経験ができそうだ」くらいの軽い気持ちだった。それが、気づけば十年以上になる。
便利で、効率がよくて、どこまでも滑らかな今の暮らしには、「区切り」がほとんど無くなってしまった。何もしなければ、季節は気づかないうちに過ぎていく。夏至の禊は、私にとって一年の真ん中に打つ、はっきりとした一点だ。ここでぜんぶ洗い流して、後半戦へ向かう。同じ寒さの中に立つ見ず知らずの人たちと、声を合わせて同じ朝を迎える――それも、ひとりでは得られないものだと思う。
冒頭に書いた、困ったときに助け舟が現れる感覚。あれが本当に神様のおかげなのか、それとも、禊で頭の中がクリアになって自分でちゃんと舵を取れるようになるだけなのか。正直、どちらでもいいと思っている。確かなのは、ここに通い続けるかぎり、私は少しだけ、まっすぐ立っていられるということ。

おわりに
太陽が見えた年も、見えなかった年もある。
けれど、見えなくたって太陽はそこにいて、その温かさはちゃんと届いている。十年かけて教わったのは、たぶんそういうことだ。冷たい海の中で空を見上げ、見えない光を信じて待つ。それだけのことが、一年を生き直す力をくれる。
いつか、ぜんぶ洗い流してまっさらから始めたくなったら――一年でいちばん長い昼の、いちばん暗い夜明け前に、こんな海があることを思い出してほしい。

