フリープランナーは無理!と確信したとき

 

私がプランナーでなくコンサルタントの道を選んだ理由

時間を巻き戻し、2011年起業前の暇な時期に。

自宅で結婚披露パーティーをしたいという知人のパーティーをアシストすることになっていた。

それこそ、「場所」も「スタイル」も「プラン」もなーんにもない。

自宅で、というこだわりも、誕生日会があり、友人が自宅に集まるので、その日に結婚発表と、ちょっとした誓いが出来ればいい。という、アバウトな計画。

しかも友人たちは、そんなことは露も知らず、訪れてくるのである。サプライズ!といえば聞こえは良いが、そんなつもりもなく呼ばれた友人、全く知らない家族の身にもなってみろ。と説教もしたくなるが、大きなお世話なのかもしれないことに、後々気が付くことになる。
本当にそんなスタイルで良いのか?家族はどうするのか?
私は、やはり、今までの経験やら実績やらにとらわれてしまい、正式なものを後回しにするの?しないの?家族は知ってるの?友人って共通の?質問攻めと説教に、常識社会人論を振りかざし、一度この話はなくなった。

「ならいい。やらない。」と、完全拒絶されたのだ。
このふたりは、結婚式場に捜しに来たお客さんでもなければ、ゼクシー読者でもないのに、セオリーを押し付けてしまったのです。

結婚式がしたい!のではなく、「私たち結婚したの」という発表と共に、ちょっとだけ、思い出に残るようなパーティーがしたい。というきっかけを持っているだけなのだから、常識だの、家族の想いだのいわれても、そんなものは二人だって考えたり思ったりしたであろう、その中での結論を私は理解できていなかったわけです。

その後、私は反省を表し、共鳴し、幾度となく着信拒否をされながらも、ようやく話が出来るようになり、お手伝いできることになった。

二人の思い描いているものを、手伝えるだろうか。まず、それが一番大事なのだ。

記憶に残るとか、記念になるとか、忘れないとか、そんなものは押し付けてどうにかなるものじゃない。結果として訪れるものだということ。ゆっくりと、ひも解いた。

やりたいことを聞き、不安を解消し、疑問に答えた

時に、余計なアドバイスをしながらも「それはいらない」と拒絶されながらも(笑)楽しく、二人がやりたいことを追いかける姿を横で見守る役を仰せつかったのだと、なんとなく立ち位置を理解し始め、ある意味この時私は思ったのです「プランナーで食べていくのは無理」私には向いていないと。

結果パーティーは仲間と盛り上がり、誕生日会なのか結婚祝いなのかわからない中でも、二人は満足そうだし、ゲストも嬉しそうだし、成功。

私には、「あれもこれも」と多少不満も残ったりもしていたので、不完全燃焼。

二人からの「多分、能登谷サン的には物足りなかったんでしょう?でもね、私たちは本当にあれがやりたかったことなの、ありがとうね」とメッセージをいただいたとき、ようやく理解ができた。ああなんて私は自我が強いんだろう、いろんなことを押し付けたがり、見守っているなどと言いながら、上から眺めていたの。最後は二人に許されていただけなのだな・・と。

私が思う理想の結婚式を叶えてあげることは得意だろう、けれど三者三様、私には理解できない価値観を持った二人の結婚式を仰せつかることは私には向いていない

違う形で、結婚式をする二人を支える仕事をしよう!

 

 

多くの人に伝えたいと思った

結婚式というのは、結婚をする二人がいればいい。

結婚生活を先輩に教えを請いたい人もいるだろう。

多くの友人に見せびらかしたい人もいるだろう。

場所にこだわりたい人もいるだろう。

物にこだわりたい人もいるだろう。

いつもの飲み会の延長線がいい人もいるだろう。

「なんでもいいよ」と、言うのは簡単だけれど、それではゴールが見えない。

ちょっと苦しいとき、けんかしたとき、寂しいとき「ニヤ」ってできる瞬間や安らぐ場所や、触れられるもの、があると、幸せだと思うの。例えば、あの日のワインを飲むと幸せなあの日を思い出す、緊張してはめた指輪で戒められるでもいい。

「ねぇ、何で、そう感じたい?」

10年後、誰が来ていたかも忘れ

あの日の自分の面影もスタイルも失っていたとしても

その大切な何かを忘れないでいられれば、二人は幸せにいられるような気がしませんか?

その大切な何かを生むことが出来るのが

「結婚式」

なのではないかと、今私は考えています。

この大切な何かは、結婚式でなくても生まれます。

ただ、結婚式というスタイルをとることで、生まれやすく、共有しやすく、残りやすいと思うのです。

ただそれだけのこと。されど、それほどの幸せが、他にあるかしら?

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!