2024
07.24

結婚式での感動も昭和と令和では大きく違う ルールなんかないのにいつまで慣例にとらわれる?結婚式は良いものだと言い続けるために考えることをやめない

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時代が変われば「感動」も変わる

生まれたころから携帯電話があり、青春時代にはスマホがあり、ジェンダー意識も高く、ハラスメントに敏感で、TVよりもyoutubeで、見ることも出る事も特別でなく、SNSもあり、動画を自分で編集投稿できる時代に育った世代が感じる結婚式での感動について考えてみた。

いつまでも変わらないと思っていた
結婚式の良さ、ありがたみ、それによって得られるもの、感動は、時代なんかでは変わらないと、結果的な家族の温かみ、友人の歓声、喜びは変わらない、がしかし!その経緯が大きく違うと思うし、変わったと思う。


アナログな時代に得られた感動は、デジタルな時代には色あせてしまうのは致し方ないこと。だが、だからなのだろう、昨今では記念に残る撮影場所として「箱が美しい」「映える」ことがまず第一に打ち出され人気で、次にいつの時代でも「美味しい」は外さないのでそこをアピール。それしかないのか?というほどにそれだけで広告されているといっていい。
これを見れば一目瞭然>>>>

なので映える箱のない会場は衰退し、結婚式の料理の美味しいなんて言う幻想に近い妄想が、若者の舌にゆだねられ、大量生産の現実との狭間で疲弊している。

結婚式をする人が減るはずである。当然の成り行き。

「バージンロードを父と歩くのが夢だった」


そういった世代は50歳を迎えようとしているころだろう。世の中の父親が頑固であったり無口であったりするほどに、その時の父の涙や震えは感動を誘うものだった。

親と仲良し、友達親子のような関係性で育った子らにとってそれは全く違う感動だろうと思う。お母さんと三人で入場、オリジナルとか個性ではなく当たり前に3人で入場なのではないだろうか?なんなら、家族みんなで歩きたいだろう、よく考えればなぜお母さんを仲間外れにするのか疑問でしかない。


新郎と2人で入場する人が増えるのもわかる(もちろん両親との関係性や状況もある)。が、ここでこそ本来のあるべき形がなぜそうなったのかを紐解き、家族で歩く事の提案が必要だと思う。

ショート動画同様、一緒にカンカンダンスで入場とかバズる場面に見えるかもしれないし、やっぱり、クリスチャンでもないのに教会で式を挙げる意味は全く持ってわからないだろう。

だって、意味などないのだから。
挙式は良いもので、それ自体に深い意味はある、がしかし現日本のチャペル挙式は単に、ドレスを着て式を挙げられる適当な場所でしかない。他にないからそこでする。八百万の神様がいる国で、どのような神様であれ神様に誓うことに対する抵抗はない、だから成り立っている。


けれど、それでなくてはいけない理由もない、神社は和装だし(これも偏見なのだが)ドレスがいいし教会って建物素敵だし、こんな機会もないと入れないし、だからそこでする。教会じゃないと仕切ってくれる人いないし、色々面倒だからそこでする。みんなもやってるからそこでする。果たしていつまでこの疑問と真剣に向き合わずに成り立っていくのだろう?


誓いを立てることの大切さはある、が、なんというか日本人のチャペル挙式は滑稽なシステムであるとしか言いようがないだろう。いつか声の大きな人が疑問を投げかけたら、瞬時に消え失せる可能性のあるよね~。別にチャペルじゃなくて挙式場・宣誓場みたいなところがいっぱいあればそこでするんじゃないかな?ってなるだろうし、その方が気軽に式をする人は増えるだろう。


司祭者(仕切る人)がいてチャペルより素敵な建物だったりして、写真映えして、安くて、衣装も何でもよかったりして…信心していない神様よりも、相手に対して誓えばいい、家族に対して誓えばいい、心の中の神様に誓えばいい

「祖父母と一緒に撮る思い出の一枚」
まだ、カメラが必要だった時代、離れた祖父母と撮る写真は記念の一枚になった。

祖父母も若くスマホを使いこなす世代、特別なことではなくなってしまっている。オンラインで日々連絡が取れ、旅行に行って花畑をバックにした祖母の写真が送られてくる(高齢者って花畑バックの写真好きじゃね?w)
祖父母との連絡もまれではなくなった時代、親族がリアルに顔を合わせて揃うというのはレアかもしれない。けれどその必要性や、ありがたみは変わっているだろうね。

「人生の縮図」
披露宴会場に揃うのは、親族から幼馴染、学生時代の友人や親友、会社の同僚や上司と人生の縮図がそこにあった。末席に座る親の目から見れば、それは親の知らない子供の人生を垣間見る感動の瞬間だった。 この辺の詳細はこちら≫≫

SNSで日々子供のリアルが覗き見れる時代。反抗期の娘に彼氏ができたことも、失恋もSNSが教えてくれた。画面の向こうで見ていた世界が、リアルになることの感動なのかもしれないし、画面の向こうに仲間入りをする瞬間の感動か。

リアルに会ったこともない仲のいい友人、リアルに引っ張り出すことには抵抗があるが一番祝ってほしい人だったりする。現在一番を自分を理解しているのはその友人たちなのに呼べないというジレンマ。リアルがマストだなんて結婚式は不便でしかないし、自身にとっては一番リアリティーがないだろう。メタバースとリアルの融合が待ち遠しいがまだその実現はレアコンテンツ。

家族の在り方が変わった。友人との関係性も変わった。
一度SNSで繋がれば永遠に切れることが無いような気もするし、実はつながっているようで繋がってないこともわかるようになった。嫌な関係はブロックして遮断できる反面、会ったことない人も仲良くなれる。そんな時代に集まる友人席は、果たして…

「人生で一度の主人公、プリンセス」

一挙手一投足を注目され、常におめでとうと笑顔で賛美され、裾を持ってもらい常にお姫様のような扱いを受ける一日。そんな一日は結婚式その日しかない!
そんな一日は本当にその日だけだった、翌日からは日常が待っていた。

なんて、妄想。

自身の発信でいつでも注目が集められる時代、何百・何千、何万人ものフォロワーから注目される時代。常に何万人のお姫様にだってなれるし、見せたくない部分は隠せる。数十人の友人の笑顔と注目はリアルで修正も効かない、彼らの撮影するものは所有権もない。そんなリスキーな会にどれほどの価値があるのだろうか。お姫様願望があればあるほどに、修正のきかないリアルな集まりは失敗が効かないしリスクがでかいだろうね。

 

私は結婚式は良いものだと伝え続けてきた
今でも良いものだし必要なものだと思っている
そんな私が今は考えてしまう

文化が変われば中身も変えていかなければ、良いものだったはずのものが、それほど良い?というものになってきて、このままでは、不要なものになってしまうのではないか?

誓うことの大切さ
喜びを共感することの大切さ

抽象的なフレーズにすれば変わらない良いもの
そのフレーズの中に込められるものは全く変わってきていると思う

50歳を迎えた私の感動はもう古い感覚のものだし、感性をいくら磨こうとも実際になんにでも涙するようになってきてしまった私に未来の花嫁にとっての理想を読み解くことは本当に難しい。初めての結婚式だからこそ、導いてあげる必要もあり、わからない人に説くからこそ寄り添っていなければならない。「これがいいですよ」という「いい」は古くないのか?本当に?すべてに疑ってかからねばならないと思う。

いつまでも10年前の感覚のままではいけない。20年前なんてとんでもない!業界全てがその感覚でいてくれること願う。